「かわいそう」ではない
近所の家の敷地内で、猫が死んでいました。
かわいそうに。
すぐに、そう思ってしまいましたが、
果たして、死ぬことは
「かわいそうだ」
と思うようなことなのか?
と、疑問に思いました。
死ぬことは、「かわいそう」ではない。
命が始まり、終わったのだ。
必ずしも生きていることが、最善ではない気がします。
目の当たりにした者は、
悲しくなったり、つらくなったりしますが、
命が終わることは、
かわいそうではない。
「忘れない」は少し嘘
あなたのことを忘れないよ。
今日の日を忘れない。
と、人はいつも言いがちである。
忘れるのだ。
毎日を生きているうちに、そのことはすっかり頭から抜け落ちて、
しばらく忘れてた、ということは多い。
愛していたから完全に忘れないが、
薄れるのだ。
きっと私も、私がどんな人間で、何をしてきたか、誰を、何を愛していたかという記憶は、
薄れていく。
だから、忘れないよ、とは言いたくないし、
言えない。
自然ではないから。
そのとき、ひたむきに愛していたことが全てだと思う。
「忘れない」は少し嘘だと、
いつも思っている。
愛犬を亡くしました
文が短くても、ブログを書こうと始めました。
しかし数日書けなかったです。
二日前に愛犬を亡くしました。
そこから、何もできない時間が続いています。
16歳。私の子供でした。
あの子がいなくなってからは、
部屋にある毛を拾い集めたり、
匂いをかいでまわったり、
それしか、できませんでした。
だんなの支えのおかげで食事もでき、
生きることができています。
それでも、まるで、留守番をしてたあの子のように、
だんなが帰ってこないと食べる気になりません。
40年以上生きてきて、
こんなにつらいことはありませんでした。
すべて予想もしていたし、
覚悟もしていましたが、
あまりにも急なお別れだったので、
つらいです。
あの子が7歳のときに、
私と一緒に実家から、
お嫁入りして、
あの子の苗字も変わりました。
ほぼ10年、旦那も一緒に愛情をかけて、
育ててくれました。
亡くなる日は、玄関を向いてふるえながら、
だんなの帰りを待っていました。
そしてあの子は、
私とだんなが一緒に、
看取ることができる時間を、
作ってくれました。
息を引き取ったときは、
おまえは親孝行だと、
2人で泣き崩れました。
犬ギライだっただんなが、
あんなにあの子を今まで思ってくれて、
今も泣いて悲しんで、
でもあの子と一緒で幸せだったと、
言ってくれて、
感謝しかありません。
この人と一緒になってよかったと、
思いました。
あの子には、
私と一緒に暮らしてくれて、
ありがとうと、
でもまださみしいよと、
一緒に死にたかったよと、
語りかける毎日です。
タテの20年、ヨコの20年、次は…?
私は今日は具合が悪く、お布団の中からブログを書いています。
しかし仕事をしたい。
そうだ、布団にパソコン持ってきて寝転びながらやればいい。
スマホでもできるが、パソコンを持ってくれば…。
寝ながら仕事をするなんて、
私20年以上、12時間立ちっぱなしみたいな仕事だったのに、
世界はヨコにもタテにもなるものだ。
次の20年はヨコでいくか。